F次元のはじっこで

藤子・F・不二雄ファンによるブログ。ドラえもん関連の記事をかいてます。イラストサイト運営。
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宝島への道中

2018年ドラえもん映画、「宝島」の予告編2が先日公開された。
宝島に関して、前々からマイナスの方向の感想を抱くばかりだったのだけれど、最新映像を見て、一通り盛り上がったところで、やはりなにか引っかかりを感じてしまった。

Twitterでは断片的な、ぼんやりとした感想を撒き散らしていたけれど、一度自分の中でこの気持ちを整理したいなと思ったので、
ひさびさにこのブログを活用することにする。正直自分でもこの負の感情が嫌で仕方ないのだけれども、整理することで何かしら分かったらいいなと、文章を書く前は思ってます。

というわけで、宝島を楽しみにしてる人には申し訳ないような内容になると思います m(_ _)m




まずは、現状分かっている宝島に対する「嫌な」ことは…
・絵柄を大山ドラに似せていること
・音楽担当をいつもの沢田さんから変えたこと

…あれ、これくらいか。

絵柄が大山ドラに似せているという点が多分この感情の9割くらいの原因だと思う。絵柄というか、それが他のすべてを象徴しているというか…



このもやもやを作っているのは、このところの「大山ドラ回帰」的な流れに対する嫌悪感、かな。なんだか、過剰なまでに、自分は大山ドラというコンテンツに対しての苦手意識が高まっているらしい…。絵を見るのも、声を聞くのも、嫌になってしまった。
二次創作としての大山ドラも、作者の方々には申し訳ないけれど、拒否感が正直強い。

といいつつ、実際に大山ドラ(短篇・映画どちらも)をDVDや配信で見ると、めっちゃ懐かしいし楽しい。このへんが非常に微妙な感情で、正直自分のことなのによく分からないのだ…。

これは前から思っていたことなんだけれど、2005年のリニューアル以来、大山ドラ「信者」わさドラへのバッシングを見続けてきた自分は、かなり屈折した思考になっているんだと思う。どれだけわさドラが面白くて、楽しくても(そうでない時期もあったけど)、大山ドラ信者はまったく見当外れの批判をし続ける。そんな言葉を何年も何年も耳にし、目にし続けた。
いつしか、大山ドラ信者に対する負の感情は、大山ドラそのものへの感情にすり替わって行ったんじゃないか。


いまやわさドラは世間にも受け入れられた感があるし、数年間短篇・映画ともども黄金期だと言える。ずっっと応援してきたいちファンとしては非常に嬉しいし、大手を振ってファンでいられる…と思っていた。


けれども、ここ最近、また変化が出てきている。
大山ドラ回帰現象。

二次創作でもよく見るし、公式でも大山風BGM(新日本誕生)があった。六本木のドラえもん展でも、まあアーティストの年代的に仕方ないけど、大山ドラをベースにしたものが多かった。

なんというか、揺り戻し現象というか、
わさドラになってから10年以上が経った今、大山ドラとの軋轢みたいな、対立みたいなもののほとぼりが冷めてきている。大山ドラとの決別、新しい「ドラえもん」を作っていくんだ!みたいな方向性の熱はなくなっていって、大山ドラの良いところはどんどん取り込んでいこう、とか、思い出語りを思いっきりしよう、とか、そんなの。

それは非常に良いことで、逆に、わさドラへ配慮して大山ドラが好きだと声高に言えなかった層もそれはそれで大勢いたんだろうなとは思う。

全然まとまってないけど、わさドラを「かばう」ことをしなくても大丈夫な地位と実力を得た現在、「大山ドラのここが良い」ということを、素直に、「わさドラ否定を含まずに」語れる時代になっているのだと思う。それは勿論、ファンだけじゃなくて、公式も。


で、ようやく宝島の話題に戻るが、完全に公式が「大山ドラ回帰」を意図的にしていると思わざるを得ない。もちろんキャラデザの人が初の人だから、その人が個人的にあのデザインが好きでやっているという面もあるんだろうけど…それにしても明らかにわさドラの絵からかけ離れてる。

そりゃ意図があるかどうか、は勿論わからないけど、
意図が無ければこれまで通りの絵柄でいくはずで、
意図があるから変えるのだ。
ああ、なんでこんな攻撃的なことを自分は書いているんだろう…

2005年から、面白いときも面白くないときもずっと応援してきたわさドラ。原作となんか違うことになってきていても、それがわさドラらしくて良いところ、と自分を納得させて、その時期ごとに楽しみや見どころを見出してきたわさドラ。そのわさドラらしさをどんどん進めてきた近年の映画を楽しみにしていた…

なのに、今回その公式から手のひらを返されたような感じになっている。
絵柄が違うのは毎年のことだけど、明らかに大山ドラに似せた絵柄。そして音楽担当まで変えてしまった。正直、素直な気持ちで宝島を応援できない状況になってしまっている。宝島を応援することは、大山ドラ回帰を支持することなんじゃないか…と自分の勝手な結論が出てしまった。


絵が大山ドラ風なのは他の人も思っているようで、大山ドラらしくて懐かしくて良いぞ、というツイートも何個か見た。

やはり、あの頃の大山ドラ「信者」の言葉がトラウマになってるんだろうか…「大山ドラが良い」というフレーズがあると、その背景やその人の思いなんてすっ飛ばして、辛くなる。過剰反応なんだろうな。



全然話がまとまらないけど、更に別のことも書いてみる。

アメリカのトランプ大統領が、政治的に正しくないけど、と前置きしたうえで、本心を言いまくり、それが「いいたいことがいえない」フラストレーションのたまった層の支持を得ている、みたいな話は、多分ファン活動においてもめっちゃある。
いわばファン活動におけるポリコレ問題。

政治的には、2005年以降はわさドラを応援するのが筋。もちろん大山ドラは否定されることは無いけれども、復活を言うのはファン的にはばかられたはず。(そこを復活復活言うと、大山ドラ「信者」扱いされる)で、前述したとおり、わさドラもすっかり定着した現在は、大山ドラを語りやすい状況にはなった。

Twitterは「みんなの好きを語る場」であるため、基本的に否定的な話はしにくい。自分の嫌いも、他人の好きであるかもしれないから。

でも、そういうのを溜めていくと結局フラストレーションがたまってしまう。今思い返すと、これまでの10年は大山ドラファンにとっての耐え忍んだ時期だったのかなぁ。そしてこれからは、わさドラファンの耐える時期になるのだろうか…

「正しいこと」と「感情」との関係は、結局分野を問わず難しいのであって、集団としてのファン活動をしている限りは、少なくともTwitterという場においては、その問題はきっと抱えながらやっていくしかない。
だからこそきっと、少数の意見が合う人とのオフ会が楽しいわけで。(そういう話だっけ)


というわけで、メタ的だけど、こうして否定的なことを存分にアウトプットすることによって、自分は発散が出来たし、諸々の感情の整理も少しはできたと思う。

ファンは公式を追うしかできないのだし、再来年の映画はまたガラッと違うことになるんだろう。それがまたどのようにこれまでと違うのか、その違いがわさドラという範疇に含まれると自分の中で納得できるか、はまた別の話だけど、見守るしかない。


素直に楽しみだと言えないわさドラ映画は初めての経験だけど、来るべき3月3日に向けて、普段通り待っていけたらいいなと。



めちゃくちゃ長くなった。読み返すとどんだけわさドラLOVEなんだよという感じだけど、多分LOVEなんだと思う。

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