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F次元のはじっこで

藤子・F・不二雄ファンによるブログ。ドラえもん関連の記事をかいてます。イラストサイト運営。
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継続と分断、あるいは

映画ドラえもん のび太の宝島 公開から数日が経った。鑑賞後のアツアツの感情はやや冷め、日常が戻ってきつつある。けれどもTwitterにはドラえもんファンたちによる賛否両論のアツい感想が続々と投稿されていて、やっぱり見てしまって再燃する、ということを繰り返している。それにしても今年ほど好き嫌いの激しい作品も無いなぁ。

小説版とサントラを買おうと近所の書店に行ったら無かったので、Amazonで注文した。読んだらまた感想が変わるのかな、それを踏まえてまた記事を書こうかなとも考えたけど、とりあえず、今の心理状況での記事をもういちど書いておくことにした。




宝島に対するこの何とも言えない嫌な気分は何なんだろうか。


結局、予告の時点で生まれたネガティブな印象がまずあって、否定する理由を映画館で探していたんじゃないかと。前の記事で書きなぐった批判的内容はすべて後付けで、結論は見る前から出ていたのだ。


それにしても、自分がこういう嫌いなこと探しをするのは本当に珍しい。特にドラえもんに対しては。

このブログにもある、過去の映画の自分の感想を見返すと、作品への評価軸はそんなに固定されてないことに気づく。微妙やなと思う作品もある。でも、そう思ってもその映画の良いところを評価するような評価軸を都度立てる傾向にあると自分では思っている。

その証拠に、去年のブログに「カチコチの良かったところを考えていたら、どんどん前作の新日本誕生の好きじゃないところが見えてきてしまって」と書いてある。どちらの作品も大好きなのだけど、作品の方向性が違うので、こういう内的ジレンマが生じたのだ。

そんな僕が、今年は思いっきり批判する方向に振り切っている。これはもう、はなから肯定する気が無いのだと思うしかないよな…。


さて、この宝島に対するネガティブな気持ちいろいろこねくり回してみたい。キャラデザに象徴される大山ドラ回帰の影。それはもちろん嫌なのだが、もっとなにか、漠然としたものがあると思っている。

それは、これまでのわさドラの歴史を分断するような、ないがしろにされたような感覚。

映画は毎年監督もキャラクターデザインの人も違うけれど、たしかに繋がっている何かがある。
例えばキャラデザ。恐竜2006で大胆に変えられたそれは、鉛筆の強弱や粗さをでもって髪の毛の存在や衣服の揺れを強調したものだった。それはしばらく継承されるが、次第に落ち着き、ひみ博で完全に無くなる。ゲストキャラのデザインは、恐竜2006のドルマンスタインや新開拓使のギラーミンのようなリアルタッチから、奇跡の島あたりを境目に、ほかのF作品からの引用が増え、F作品らしい顔立ちや頭身となっていった。
オリジナル作品の内容だってそうだ。緑の巨人伝、人魚大海戦のような、なにか壮大な地球の危機を壮大な冒険によって解決しなければならないという縛りのあった初期から、ひみ博で完全にふっきれて、スケールは小さくともわさドラらしさを存分に生かした作風へと変化していった。もちろんそれで完全に満足しているわけではないけれど、そういう流れの上で揺れながらも確立してきたわさドラという存在を応援していたのだ。

宝島は、こうした文脈を無視した存在だと思っていて、それが自分の中で許せないポイントになっていると考える。
大山ドラ寄りのデザイン、Fらしくないゲストキャラクター(フロックとセーラは除く)。音楽担当も沢田完さんじゃないし、OPもなかった。エンディングの映像も去年までとのつながりを感じさせるものじゃなかったし、もちろん作風もかなり異なる。

言いがかりだよそれ、というものもあるのは自覚してる。だけど、やっぱりこれまで積み上げてきたわさドラという歴史の上に無いアニメドラえもんだという印象はやっぱり、ぬぐい切れないのだ。
(宝島にカチコチの極地探検スーツが出てきたじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、そういう話をしているわけじゃないのはお分かりだと思います)


スタッフも、これまでドラえもんに関わってこなかった人が例年より多い。それが悪いとは言わないけど、自分の狭い視野からは、どうしても、「わさドラのこと何も知らないくせに、俺の領地に外野から土足で踏み荒しやがって」という過激な気持ちがめちゃくちゃ溢れ出てくる。
そう、僕はもともと過激派なんだ。良きファンであろうとして色々制御してるところはあったけど、今年はもう成すすべもなく過激な本性が噴出してしまった。


来年は八鍬さんが監督だろうということで、内部の人だからやっぱりこれまでの歴史の延長線上にあるドラえもん映画を拝めるんだろうと期待している。とりあえず、来年に関しては。

こういう考え方はコンテンツの可能性を狭める良くないものだという自覚もあって、だからこそ寛容になりたいという気持ちも強い。でも、去年まで出来ていたその寛容行為が、今年はほとんど機能しない。好きなところ探しは、今年はあんまりできそうにないや。ごめんね、ドラえもん。


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アイアイサー!映画ドラえもんのび太の宝島を観てきたの巻

2018年3月3日、TOHOシネマズ 六本木ヒルズにて、「映画ドラえもんのび太の宝島」を観てきた。初日初回、舞台挨拶!舞台挨拶に来れたのは宇宙英雄記以来3年ぶり2回目。関智一さんの独壇場でけっこう笑えた。

鑑賞後は同じく舞台挨拶を見に来ていたドラ仲間達と近くのファミレスで反省会。そこで話しながら感じたことも含めて、以下、ネタバレ込みでつらつら書いていこうと思う。


~以下、ネタバレあり感想~

宝島みたび

寛容でありたい、中庸でありたいという願望が非常に強いとずっと思っていて、仕事として関わりの薄い同僚、利害関係のない友人など、距離を置ける人に対してはそれはある程度うまくいっている。でも困ったことに、距離が近づくと途端に相手の一挙手一投足が許せなくなってしまう。―――特に家族には冷たくあたってしまう、おそらく家族からはドライで怒りんぼだと思われてるだろうな。

これほどまでに、映画ドラえもん「宝島」に対して負の感情が生じてしまっているのは、たぶん、ドラえもんという存在が近すぎる、いや、自分の内部の深いところまで沈着してしまっているからなんだろう。他の「好きな」アニメでこういう感情は起こらない。

宝島の予告第3弾が発表され、主題歌である「ドラえもん」が話題となった。
ポップな曲調で歌詞はドラえもん愛にあふれているし、もともと自分は星野源さんの曲が大好きであるので、予告第2弾までの不安はふっとび、一気に公開が楽しみ~♪になった。聴きすぎて脳内エンドレス再生し、仕事に支障も出た。
映像も、キャラデザは置いといて、よく動くし、日常パートの雰囲気がとっても気に入ったのでそちらも楽しみになっていた。

しかし状況は変わる。ラジオで「ドラえもん」がフルで聴けるということで早速聴くと、間奏に「ぼくドラえもん」のメロディーがアレンジされて入っていた。しかもかなり露骨に。それで、過去2つの記事を読んでくださった奇特な方なら分かると思うけど、一気に萎えてしまった。


出てくる新らしい情報がなぜこうもことごとく大山ドラ要素たっぷりなんだろう。制作陣が、世代的にグっとくるドラえもん愛を詰め込んでみた結果がたまたま大山ドラ成分多くなりました、だとしたら、それはドラ歴史を知らなさすぎるんじゃないか。歴史には不可逆性ってものがある。

まあ、あの大山ドラ回帰で動いている映像になら、間奏は「ぼくドラえもん」で逆に正解だよなと、ひねくれた感想も持ったりした。


ここ最近のアニメ業界における過去の作品のリメイク・続編ラッシュは、正直いかがなものかとも思っている。でもそれは本論からずれるので触れる程度にしておきたいけれども…
でも、やはり幼いころに楽しんだ作品が大人になった今、よみがえるのは嬉しいもんだ。だいたいは過去作のオマージュも仕掛けられていて、そこもニクい演出。あー懐かしいなぁ、あのころは楽しかったなぁと、思い出とともに新作を見られる喜びは大きい。

そんな気持ちを持ちつつも、過去のコンテンツにすがっていつまでもやっていくのってどうなの?という負の感情は横に潜んでいて。近いうちに、東京五輪という完全に年取った大人たちによるセルフリメイクイベントがあるし、そのテーマソングが東京五輪音頭って…っていうまあこれこそ関係ないが、現代の日本全体が共通して陥ってしまっている時代現象のひとつとしての文脈でとらえることもできる。

そんなこといってると、いやおまえ、藤子・F・不二雄っていう、もう20年も前に亡くなった人の作品をいまだに第一に楽しんでいるって、どれだけ過去の遺産にすがってるのだと言われてしまいそうだ。何より自分がそう思ってしまっている。

でも…ドラえもんは過去の遺産なんかじゃない、いまの、現在進行形の、コンテンツなんだと、胸をはって楽しみたい、というジレンマ。その、現在進行形の象徴が自分にとっては2005年から始まった新・ドラえもんなのだ。

現在進行形で子どもが楽しんでいる、現在進行形で自分が楽しんでいる。そんな場所に、過去の要素、しかもかつて公式自身がそこから脱却したはずのもの、をいきなり嬉々として持ってきた。全力で。総動員で。




なんの屈託もない笑顔で大山ドラ成分を持ち寄られ、これが俺たちのドラえもん愛だと言われて、しかもそれが公式であった。




とりあえず、一か月後だね。

宝島への地図

昨日は勢いに任せて宝島に関するブログ記事を書きました。
Twitterでも反響、というか、これを機会に~という流れでいろんな人がそれぞれの思うことを呟いていて、僕としてもいい視点を得られました。とまあ好意的に書いてますが、別に自分の考えが正しいとは思ってないし、やはり感情的になりすぎてるなぁ自分、と思いながら今もいてます。

今回は、またまた自分の思考の整理をするとともに、他のファンの意見や視点を集めて、自分の意見を書こうと思う。
備忘録のような、まとめ記事のような記事です。


①そもそも大山ドラに似ているのかどうか
前回に記事では「宝島のキャラデザは大山ドラに似ている」ということを前提にしてますが、まずこれ、事実なのかどうか。主観なのではないか。
似ているかどうか、はかなり主観に頼ったうえでの主張かなとは思ってます。ただ、いくつかポイントはあります。
・黒目が小さい(申し訳程度のハイライト)
・ドラえもんの逆三角の大きな口
・しずかちゃんのおさげが小さい
・しずかちゃんの目

とまあこれも主観といえば主観…
Twitterでも「似てる」という声はそこそこ多いので、自分だけの主観ではないのは確かなんですが。

あとは、キャラデザ担当の方のTwitterのやりとりからですかね。引用は避けますが、本人たちが子供だった頃のドラえもんを意識してデザインしたことをほのめかしています。ただ、ちょっとその発言がどうも…わさドラのこれまでの歴史をガン無視したようなニュアンスにとれる…というかTwitterだと背後の文脈が分からないし、あんまりこそこそバナシしたくもないので、インタビュー記事を載せた映画ドラムック本とか出してほしいです、めっちゃ読みたい。


②似てるといっても大山ドラのいつ頃のことを言ってるのか
最初期の大山ドラ…ですかね。後期には似てるとは言えないと思います。
キャラデザスタッフに詳しい方々の知恵の結集は面白いんですが、僕は「わさドラキャラデザ」に対応する広義の「大山ドラキャラデザ」を言っているのであって、どの時期には似てない似てるという狭義の話はしてないです。そもそもそんな全く一緒の絵なら、今自分がやいのやいの言ってるような議論になってないでしょう。


③キャラデザの幅広さがわさドラらしさなのでは?
そうなんです、まずそもそも短篇と映画とでキャラデザが違うというのが恐竜2006の時から続くウリなんですよね。去年のカチコチのキャラデザも結構雰囲気違いましたがかわいかったし、むしろ変化があったほうが新鮮味があって僕は好きなんです。
奇跡の島も、特にスネ夫の口が、かなり独特ですよね。あれは好き嫌い別れる。

あれだけ振り幅の大きいキャラデザを持つわさドラにあって、なぜ宝島は僕が拒否反応示しているかというのは、ただ一点、大山ドラに似ているからです。それだけです。

だから、コレ以外の議論はすべて感情論です。大山ドラに似ていないのであれば、奇跡の島も、SBMも、カチコチのしずかちゃんも、キャラデザがめっちゃ違っても僕はOKでした。似ているから拒否反応が出てるんです。理由は、前の記事に書いたようにトラウマ化してしまったからです。


④むしろキャラデザより予告編が下手なのでは
それは僕の気になるポイントからハズレているのか、パッと何も気にならなかったので本論では割愛します。興味めっちゃあるのでぜひバシバシ語って欲しいです。


⑤わさドラ、大山ドラと連呼すると声優の話になるようで嫌
それは確かにな、と思った。馴染みのある呼称だったから安易に使ったけど、「前ドラ」「現ドラ」とか、あまり使われない単語を使った方が良かったかもしれない。




とまあ、ぐだぐだ書いたけど、まとめると、

宝島のキャラデザは大山ドラに似ている
・パッと見で大山ドラっぽさを感じさせるのは確か
・担当者が大山ドラを意識してデザインしたのもおそらく事実
・ここで言ってる大山ドラとは広義の大山ドラ



キャラデザがいつもと違うことではなくて、大山ドラに似ているのが問題
・キャラデザが違うのはいつものこと、むしろわさドラらしさ



大山ドラというコンテンツ自体にイセさんは過剰な反応をしてしまっている
・大山ドラ「信者」からのトラウマ(前記事参照)



よって本人の意志と無関係に感情的になってしまい、宝島を素直に楽しみにできない


よし、まとまりました。



最後に、これは言わないと無責任になってしまうので…
今回ブログで僕は自分がどう思っているか、感じてしまっているか、を整理するために文章を書いた。が、こうしてワールドワイドに公開している以上、宝島を純粋に楽しみにしようとしているファンの人達には水を差す行為になってしまっていると思う。Twitterで宝島楽しみ♪と言いづらい雰囲気にさせてしまっていたら申し訳ない。
僕は別に偉い人でも権威ある人でもないので、僕のことはほっといて語っていてもらいたい。まあそんな小さいことをクヨクヨ考えるのは僕くらいだとは思うので、心配はしていないけれど。

同調する楽しみ、対立する楽しみ。それはファン-ファン、ファン-公式に限らず、楽しいことだと思うので、ぜひこれからも大いに語り合っていきましょう。


あとは…本篇見ないとこれ以上は憶測では語りようがない!なのではやく3月3日になってほしいなぁ。

宝島への道中

2018年ドラえもん映画、「宝島」の予告編2が先日公開された。
宝島に関して、前々からマイナスの方向の感想を抱くばかりだったのだけれど、最新映像を見て、一通り盛り上がったところで、やはりなにか引っかかりを感じてしまった。

Twitterでは断片的な、ぼんやりとした感想を撒き散らしていたけれど、一度自分の中でこの気持ちを整理したいなと思ったので、
ひさびさにこのブログを活用することにする。正直自分でもこの負の感情が嫌で仕方ないのだけれども、整理することで何かしら分かったらいいなと、文章を書く前は思ってます。

というわけで、宝島を楽しみにしてる人には申し訳ないような内容になると思います m(_ _)m




まずは、現状分かっている宝島に対する「嫌な」ことは…
・絵柄を大山ドラに似せていること
・音楽担当をいつもの沢田さんから変えたこと

…あれ、これくらいか。

絵柄が大山ドラに似せているという点が多分この感情の9割くらいの原因だと思う。絵柄というか、それが他のすべてを象徴しているというか…



このもやもやを作っているのは、このところの「大山ドラ回帰」的な流れに対する嫌悪感、かな。なんだか、過剰なまでに、自分は大山ドラというコンテンツに対しての苦手意識が高まっているらしい…。絵を見るのも、声を聞くのも、嫌になってしまった。
二次創作としての大山ドラも、作者の方々には申し訳ないけれど、拒否感が正直強い。

といいつつ、実際に大山ドラ(短篇・映画どちらも)をDVDや配信で見ると、めっちゃ懐かしいし楽しい。このへんが非常に微妙な感情で、正直自分のことなのによく分からないのだ…。

これは前から思っていたことなんだけれど、2005年のリニューアル以来、大山ドラ「信者」わさドラへのバッシングを見続けてきた自分は、かなり屈折した思考になっているんだと思う。どれだけわさドラが面白くて、楽しくても(そうでない時期もあったけど)、大山ドラ信者はまったく見当外れの批判をし続ける。そんな言葉を何年も何年も耳にし、目にし続けた。
いつしか、大山ドラ信者に対する負の感情は、大山ドラそのものへの感情にすり替わって行ったんじゃないか。


いまやわさドラは世間にも受け入れられた感があるし、数年間短篇・映画ともども黄金期だと言える。ずっっと応援してきたいちファンとしては非常に嬉しいし、大手を振ってファンでいられる…と思っていた。


けれども、ここ最近、また変化が出てきている。
大山ドラ回帰現象。

二次創作でもよく見るし、公式でも大山風BGM(新日本誕生)があった。六本木のドラえもん展でも、まあアーティストの年代的に仕方ないけど、大山ドラをベースにしたものが多かった。

なんというか、揺り戻し現象というか、
わさドラになってから10年以上が経った今、大山ドラとの軋轢みたいな、対立みたいなもののほとぼりが冷めてきている。大山ドラとの決別、新しい「ドラえもん」を作っていくんだ!みたいな方向性の熱はなくなっていって、大山ドラの良いところはどんどん取り込んでいこう、とか、思い出語りを思いっきりしよう、とか、そんなの。

それは非常に良いことで、逆に、わさドラへ配慮して大山ドラが好きだと声高に言えなかった層もそれはそれで大勢いたんだろうなとは思う。

全然まとまってないけど、わさドラを「かばう」ことをしなくても大丈夫な地位と実力を得た現在、「大山ドラのここが良い」ということを、素直に、「わさドラ否定を含まずに」語れる時代になっているのだと思う。それは勿論、ファンだけじゃなくて、公式も。


で、ようやく宝島の話題に戻るが、完全に公式が「大山ドラ回帰」を意図的にしていると思わざるを得ない。もちろんキャラデザの人が初の人だから、その人が個人的にあのデザインが好きでやっているという面もあるんだろうけど…それにしても明らかにわさドラの絵からかけ離れてる。

そりゃ意図があるかどうか、は勿論わからないけど、
意図が無ければこれまで通りの絵柄でいくはずで、
意図があるから変えるのだ。
ああ、なんでこんな攻撃的なことを自分は書いているんだろう…

2005年から、面白いときも面白くないときもずっと応援してきたわさドラ。原作となんか違うことになってきていても、それがわさドラらしくて良いところ、と自分を納得させて、その時期ごとに楽しみや見どころを見出してきたわさドラ。そのわさドラらしさをどんどん進めてきた近年の映画を楽しみにしていた…

なのに、今回その公式から手のひらを返されたような感じになっている。
絵柄が違うのは毎年のことだけど、明らかに大山ドラに似せた絵柄。そして音楽担当まで変えてしまった。正直、素直な気持ちで宝島を応援できない状況になってしまっている。宝島を応援することは、大山ドラ回帰を支持することなんじゃないか…と自分の勝手な結論が出てしまった。


絵が大山ドラ風なのは他の人も思っているようで、大山ドラらしくて懐かしくて良いぞ、というツイートも何個か見た。

やはり、あの頃の大山ドラ「信者」の言葉がトラウマになってるんだろうか…「大山ドラが良い」というフレーズがあると、その背景やその人の思いなんてすっ飛ばして、辛くなる。過剰反応なんだろうな。



全然話がまとまらないけど、更に別のことも書いてみる。

アメリカのトランプ大統領が、政治的に正しくないけど、と前置きしたうえで、本心を言いまくり、それが「いいたいことがいえない」フラストレーションのたまった層の支持を得ている、みたいな話は、多分ファン活動においてもめっちゃある。
いわばファン活動におけるポリコレ問題。

政治的には、2005年以降はわさドラを応援するのが筋。もちろん大山ドラは否定されることは無いけれども、復活を言うのはファン的にはばかられたはず。(そこを復活復活言うと、大山ドラ「信者」扱いされる)で、前述したとおり、わさドラもすっかり定着した現在は、大山ドラを語りやすい状況にはなった。

Twitterは「みんなの好きを語る場」であるため、基本的に否定的な話はしにくい。自分の嫌いも、他人の好きであるかもしれないから。

でも、そういうのを溜めていくと結局フラストレーションがたまってしまう。今思い返すと、これまでの10年は大山ドラファンにとっての耐え忍んだ時期だったのかなぁ。そしてこれからは、わさドラファンの耐える時期になるのだろうか…

「正しいこと」と「感情」との関係は、結局分野を問わず難しいのであって、集団としてのファン活動をしている限りは、少なくともTwitterという場においては、その問題はきっと抱えながらやっていくしかない。
だからこそきっと、少数の意見が合う人とのオフ会が楽しいわけで。(そういう話だっけ)


というわけで、メタ的だけど、こうして否定的なことを存分にアウトプットすることによって、自分は発散が出来たし、諸々の感情の整理も少しはできたと思う。

ファンは公式を追うしかできないのだし、再来年の映画はまたガラッと違うことになるんだろう。それがまたどのようにこれまでと違うのか、その違いがわさドラという範疇に含まれると自分の中で納得できるか、はまた別の話だけど、見守るしかない。


素直に楽しみだと言えないわさドラ映画は初めての経験だけど、来るべき3月3日に向けて、普段通り待っていけたらいいなと。



めちゃくちゃ長くなった。読み返すとどんだけわさドラLOVEなんだよという感じだけど、多分LOVEなんだと思う。

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